2026年4月1日と4月8日、医療従事者向けポータルサイト「m3.com」で当院が紹介されましたので、御報告します。
【宮城】東大文学部卒後、漫画編集者を経て42歳で医師に-小野寺啓・国見ケ丘内科・糖尿病クリニック院長に聞く◆Vol.1
◇「健康が大前提なんだ」父の死をきっかけに、医学部受験を決意◇
――先生は東京大学文学部を卒業して出版社で約10年間勤務した後に、東北大学医学部に入学したそうですね。医学部の再受験を決意したきっかけを教えてください。
私が32歳の時、父親が肺がんのため64歳で亡くなりました。そんなに早く亡くなるとは思っていなかったので、まさに青天の霹靂で、「仕事をするにせよ、自由を謳歌するにせよ、健康が大前提なんだ」と改めて気付かされました。
当時は東京都内の大手出版社に勤務して少女漫画部門に所属していました。編集者という仕事はやりがいがある反面、激務で昼夜逆転生活になってしまったり、飲酒や喫煙が習慣化していたり、心身の健康を損なっている同僚が多くいました。自身のこれからの人生を考えた時に、このまま出版業界で勤務し続けていいのかと考えていたタイミングで、父の死が価値観を変えるきっかけになりました。
私は経済的に恵まれない子ども時代を過ごしたこともあり、ハングリー精神と知識欲を強く持っていました。「どうせ人生をリスタートするなら、全く学んでこなかった分野の仕事をしよう」と、医学部受験を決意しました。これまでも多くの逆境を乗り越えてきた経験から「自分が頑張りさえすれば絶対に何とかなる」と楽観的に考え、退路を断つために出版社を退職しました。当時は、「自分を変えられなくなったら、生き物として終わりだ」と思っていました。
◇理系の受験勉強を突き詰め、36歳で東北大学医学部合格◇
――再受験までブランクがあったことや、文系から理系に転向したことでご苦労はありましたか。
退職して最初の半年は独学だったので、机に座って長く勉強すること自体が難しかったです。1年目に受けたセンター試験の数学は、半分もできませんでした。計算ミスが多くて、偏差値は数学が20台で、化学も30台。物理はとても無理そうだったので、理科のもう1教科は生物を選択して、予備校にも通いました。
その昔、東大受験をした時に、勉強のやり方については相当考え抜いていたため、自分の欠点は「計算力」だと分かっていました。あとは典型的・標準的な問題を間違えずに解き切る精度とスピードを上げる修行を積むだけでした。
文系科目の国語・英語・社会はほとんど勉強せず、現役で受験した時の記憶を頼りにしました。テストや試験前に参考書を眺めるだけでした。
年齢的にも面接の比重が大きい大学はリスクが高かったので、学力勝負に持ち込める旧帝国大学を狙いました。知らないことを知る、分からないことが分かるようになるのは楽しく、理系の受験勉強を突き詰めることを目指しました。
最終的に、退職してから2年半かけて、36歳で東北大学医学部に合格しました。最初の半年は東京都内、その後の1年は地元の仙台市で受験勉強に励んだのですが、最後の1年はほとんど知り合いのいない関西に行って、雑音のない状況で自分を追い込みました。
私の世代はロストジェネレーションと呼ばれていて、激しい受験戦争があったのに、いざ就職の段階でバブルが崩壊して就職氷河期に直面しました。とても不遇の世代だと思います。だからこそ「恵まれている若い世代には負けたくない」という反骨精神が根底にあったと思います。
◇編集者の経験や話術がインフォームド・コンセントに生きた◇
――漫画編集者の経験は、医師の業務に役立っていますか。
漫画をつくるのは、漫画家と編集者との共同作業です。自分が面白いと思うものを、多くの人に面白いと思ってもらえるように伝えるには技術が必要です。
今はスマホのダウンロード配信で漫画に触れる時代ですが、漫画雑誌は左側の奇数ページに表紙があり、ページをめくると右側のページの最初のコマが「つかみ」で、そこに主人公を登場させつつ、どんな性格で何をやろうとしているのか、読者に分かるようにプレゼンテーションをする必要がありました。
読者を引き付ける話の構成は、患者さんへの説明やインフォームド・コンセントでも、同じように重要です。編集者時代にはいろんな雑学を幅広く吸収しようと努力していたので、患者さんとの会話のネタで困ることもあまりありません。
今でも自分が医師という枠組みの中に規定されているとは考えていなくて、医療業界を外側から見ているような感覚があります。他業界での社会人経験が現在の診療のベースになっていますし、医師らしくない医師でありたいと思っています。
◇ジェネラリストを志向し、さまざまな疾患と合併する糖尿病診療の道へ◇
――糖尿病診療を専門に選んだ理由は何ですか。
医学生のとき、東北大学大学院医学系研究科糖尿病代謝内科学分野の片桐秀樹教授の授業を受ける機会がありました。言うまでもなく研究者として大変優れていらっしゃるのですが、愛情深さがあり、興味関心の幅が広く、物事一般に対する洞察力が優れていることがにじみ出ていました。「こういう先生がトップの医局であれば困ることはないだろう」と感じたというのが理由の1つです。
もう1つの理由は、自分の中に「いろんな症状を診られるようになりたい」というジェネラルな診療への志向があったからです。学生時代は総合診療や精神科も選択肢として考えていましたが、上司や先輩からは「何でも診たいのなら、コモンディジーズを専門にした上で、内科医としてさまざまな経験を積むように」というアドバイスを受けました。
そう考えた時に、さまざまな疾患とクロスオーバーする糖尿病診療は「最適解」だと思います。みやぎ県南中核病院、仙台市立病院、大崎市民病院など、地域の急性期病院に勤務していた時は、他科からのコンサルトを受けて、術前の血糖コントロール、慢性膵炎のインスリン治療、腫瘍内科・血液内科・呼吸器内科・リウマチ科・耳鼻科のステロイド治療による血糖値の上昇、心筋梗塞後の心不全患者のHbA1cの長期的改善など、さまざまな病態に触れることができました。他科との連携がこれほど多い専門科は、ほかにあまり思いつきません。
――勤務医時代にはどんなことを学びましたか。
勤務医時代は失敗ばかりで、医局の先輩方にご迷惑をおかけしました。特に、みやぎ県南中核病院の近藤敬一先生は私にとって師匠で、糖尿病に限らず内科一般の診療を教えていただき、医師とはどんな職業なのかを目の当たりにしました。
近藤先生は、フルートをたしなんだり、感染症にも興味があったり、興味の幅が広い方なのですが、何よりも患者さんに優しい先生でした。「患者さんから信頼されなければ、医師じゃない。患者さんに優しくなければ、医師である資格がない」と背中で語っていました。私も患者さんに対しては優しくありたいと思います。
――医師としてのキャリアプランを教えてください。
私はJ-OSLERを始めとする新専門医制度になった1年目の世代です。その役割を果たしたいと思っており、内科専門医、内分泌代謝・糖尿病専門医、糖尿病専門医を維持することが現実的な目標です。
開業するとどうしても情報弱者になりがちですが、ガラパゴス化せずに、新しく知識をアップデートできる医師でありたいと思っています。そのためにも、糖尿病と内分泌関連の学術集会や地方会には積極的に参加して、学びを深めるとともに地域の先生方と連携を強めていきたいです。
余談ですが、私は文学部哲学科で学んだ古代ローマの詩人の言葉「健全な精神は健全な肉体に宿る」は真実だと思っています。学生時代は水球、登山などに親しんでいて、近隣の泉ケ岳、船形山、大東岳、面白山などは冬山登山にもよく挑戦していました。開業してからはなかなか時間を取れていませんが、もう少し余裕が出たら再開して、患者さんと一緒に自分自身の健康も保っていきたいですね。
【取材・文・撮影=福岡美幸】